東京高等裁判所 昭和42年(う)1926号 判決 1969年9月17日
主文
本件各控訴を棄却する。
理由
本件各控訴の趣意は、検察官河井信太郎作成名義の控訴趣意書に記載してあるとおりであり、これに対する答弁は、弁護人坂井改造外三弁護人作成名義及び弁護人五十嵐芳男外二弁護人作成名義の各答弁書記載のとおりであるから、ここにこれを引用し、これに対して当裁判所は、つぎのように判断をする。
按ずるに、刑法第一七五条にいわゆる「猥褻の図画」とはその内容が徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に去するような図画をいい、その判断は、一般社会において行なわれている良識、すなわち社会通念に従つてなされなければならないこと、並びに、たとえ該図画が芸術的な作品であつても刑法上猥褻性を有する場合があり、該猥褻性の存否は当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、作者の主観的な意図によつて影響されるものでないことは、いずれも、最高裁判所大法廷判決(昭和三二年三月一三日言渡、同裁判所判例集第一一巻第三号九九七ページ参照)の趣旨に照らして明白であり、本件映画のような映画の上映の猥褻性の有無を判断するにさいしても、かかる見解に立脚するのを相当と解する。原判決もまた、本件映画(本件公訴の対象となつている映画「黒い雪」全九巻の上映をいう。以下同じ。)の猥褻性を判断するにさいし、右最高裁判所の判例に立脚したことは原判決の明言するところであり、さらに原判決は、右判例がいわゆる「文書」に関するものであるところから、これを本件に適用するにあたつては、「映画のもつ特質」をも考慮すべきであること、そして劇映画が、単なる娯楽としてではなく、芸術として、あるいは思想の表現形式として現代に果たす役割をも重視すべきであり、憲法はかかる劇映画形式による表現の自由をも保障しているのであるから、刑法第一七五条の解釈、適用にさいしても表現の自由を侵害するがごとき結果を招かないように、十分の配慮をなすべき旨を説示しているが、このこと自体はもとより当然のことというべきであり、当裁判所といえども、これに対して何ら異論をさしはさむものではない。しかし、原判決が、本件映画の猥褻性を判断するにさいして考慮した事項としてさらに具体的に摘示するところをみるに、原判決は、(イ)「映画の上映とは映画フイルムを一定速度でスクリーンに映写し、観客に観覧させることによつて成立する」ものであり、「個々の場面が集積構成されてはじめて一個の意味ある映画作品を形成するものであるから、その全映像は一体不可分のものとして考察されるべきである」こと、並びに、「観客は、たとえば文書のように、ある特定の場面のみを恣意的に静止させたり、くり返えさせたりして観覧するなどの自由な選択が許されず、いわば、構成された全映像をある定まつた時間内にそのまま観覧することを強制されている」ことから、「ある映画が猥褻図画といえるかどうかは、これを全体として、しかも時間の流れのなかで評価すべきであつて、個々の場面も、常に全体との関係で検討される必要があり、部分的に切りはなして考えることは相当でない」とし、したがつてその猥褻性の有無は、これを観覧した普通人のいだくであろう全体的印象、感想に基づいて判断すべきものであること、(ロ)劇映画は、「観客の目的をもつた積極的参加行為が要求されるものであり、しかも、その映写は劇場という場に限定してなされるものであること」、したがつて、「劇映画を観覧する目的で一般劇場に入場した普通の観客が、ここでいう普通人」であること(ハ)本件映画は成人向き映画に指定されていたことのほか、(ニ)映画の猥褻性の有無は、製作者の単なる主観的なかし独善的な製作意図をもつて判断すべきではなく、芸術作品だからといつて刑法的規制の対象とされないわけではないが、「普通人が映画そのものから客観的にうかがうことのできる製作者の製作意図」(客観的意図)並びに「映画そのものが有する諸価値」はこれを考慮すべきこと、(ホ)本件映画と「同程度、同種の表現方法や表現態様をとつている映画が相当数製作され、一般に公開されていて、しかも公権力もこれを放置している場合には、それは、単なる捜査官憲の取締態度の当否などの問題ではなく、社会一般の大勢が消極的にせよ、その程度の映画は、その上映を是認し、許容していることを示すもの、いわゆる社会的相当性の限界内において許されるもの、と考えるべきであつて」この点も十分考慮されねばならないこと、(ヘ)本件映画は映倫管理委員会の審査を通過していることを指摘し、映倫管理委員会の性格、その審査に対する製作者を含む社会一般の信頼度について詳細な説示をなしている(以上、(イ)ないし(ヘ)につき、原判決書五七ページの2ないし七六ページの四の前行まで参照)。当裁判所としても、そのいわんとするところは必ずしもこれを理解できないわけではないのであるが、ただ、つぎの点を指摘せざるをえない。すなわち、
(1) 原判決は前記(イ)の点において、映画の上映は、「その全映像が一体不可分のものとして考察されるべきものである」とか、あるいは、「個々の場面も常に全体との関係で検討される必要がある」など、いわゆる作品の全体的評価の必要性を強調しているやに看取される。しかし、原判決にいわゆる「個々の場面が集積されてはじめて一個の意味ある作品を形成する」ものは、ただに映画の上映に止まらず、そのことは文書においても同様である。とくに芸術、あるいは思想、あるいは学術書といわれる文書においては、全体を一体不可分のものとして考察しない限り、真の芸術的、思想的、学術的な意味を把握することはできない。そして、ある文書中の問題となる性的描写部分も、その文書の性格、その部分がその文書中に置かれている位置関係、前後の状況等によつて該部分の猥褻性が影響され、あるいは、文書そのものの有する芸術性、思想性、学術性の故に、さらにはその作品自体から窺われる作者の問題を取り扱う真摯な態度などによつて、その問題となる部分の猥褻性の判断が影響されるということはもとよりありうるところではあろう(いわゆるサド事件に関する東京高等裁判所昭和三八年一一月二一日判決、高等裁判所判例集第一六巻第八号五七三ページ以下、とくに五八六ページ参照)けれども、他方において、否むしろ基本的には、刑法が規範として問題とする猥褻の観念は、芸術とか、思想とか、あるいは学術性とは次元を異にする観念であることは前記最高裁判所判例が明らかに判示するとおりであるとともに、刑法は、その芸術性、思想性、学術性そのものを問題とするものではなく、単にその表現の仕方を問題にするものであることを忘れてはならない。そうだとすれば、その猥褻性の捉え方は、むしろ部分的に観念されるのほかなく(前記高裁判例参照)、その作品の全体的な芸術性、思想性、学問性を考慮すべきものとの議論は、いきおい、当該作品の芸術性、思想性、学問性それ自体を裁判の対象とする結果を招き、一歩誤らんか、憲法の保障する学問、思想、表現の内容そのものを侵害する危険なしとしない。以上の事理は、映画の上映における猥褻性の有無を判断するについても全く同様というべきである。映倫管理委員会規程が審査の対象として「審査に当つては映画の質的及美術的又は芸術的の面についてはいつさい批判は行わないこととする。」ことをも規定した(同規程の五(2)参照)趣旨も同様の見解に立脚するものと解される(なお、原審証人大川博の同旨の証言参照)。したがつて、原判決が作品の全体的考察を強調する趣旨も、以上説示するところと同旨の見解に止まるものならば格別、本件図画が映画の上映であることから、それが文芸作品等文書における猥褻性の判断の場合と本質的に異なるものとする趣旨ならば当裁判所のたやすく賛同しがたいところである。
原判決はまた、映画の上映は、文書における読書のように、ある特定の場面のみを静止させたり、くり返させたりして観覧するなど自由な選択が許されないというが、映画の上映といえども、当該映画がくり返し上映される以上、ある特定場面のみをくり返し観覧することはもとより可能であり、とくに本件映画のごときは、作中人物である次郎がアメリカ軍当局によつて逮捕連行される場面を境に、その前後は截然と区別され、その前者の部分は専ら男女の性的交渉場面というも過言ではなく、したがつて、本件における猥褻性の問題となる場面も専らその部分にあり、しかもその部分は、全映画の三分の二以上を占めており、その後者の部分とは全くその趣を異にしているのであるから、問題を含む場面のみをくり返し観覧することも比較的容易というべきである。それ故、これとても、映画の上映と文書とを区別すべき本質的な要素とはいいがたい。
(2) つぎに、原判決は、前記(ロ)の点において、劇映画は観客の積極的な参加行為が要求されることを指摘しているが、このことは、原判決が例示する家庭内のテレビによる映像や街頭の広告あるいは看板などとの比較においては、その猥褻性の判断について考慮の余地があるとしても、前記最高裁判所並びに高等裁判所の判決におけるような文芸作品との対比においては、両者全く同様の考慮がなされるに過ぎない。すなわち、猥褻文書といえど、購読者の読書という積極的な参加行為が伴わない限り、なん人に対してもなんらの害毒を流布するものではない。
(2) さらに、原判決は、前記(ハ)の点において、本件映画はいわゆる成人映画であることを強調する。そして原判決は、映画館等興業場においては、入場者についてその年令的制限は遵守されていたともいう。しかし、当裁判所における事実取調の結果(証人宮部保の証言)によれば、一般的には必ずしも右年令的制限が遵守されていたものとは認めがたい。のみならず、成人映画にいわゆる成人とは、原判決もいうように一八歳以上の者をいうことは証拠上明白であるから、人間的には未だ未成熟の者をも含み、他面、性的成熟期はむしろ一八歳以上にあり、かつ、いわゆる性的犯罪が、統計上、一八歳以上の少年並びに法律上の成人である二〇歳以上の者のうちその若年層に集中していることは公知の事実というべきである。そして、映画の観覧は、文芸作品等の読書と比較してより安易になしうるところである。それ故、本件映画が成人映画であるからといつて、その猥褻性の判断について格段に判益な考慮が払われるべき道理はない。
(4) 原判決はまた、前記(ホ)の点において、社会一般の大勢が、本件映画と同種、同程度の表現方法や表現態様をとる映画が相当数公開されていることを、消極的にせよ、是認していることを指摘している。今日、性的秩序と道義観念に照らしてまことにいかがわしいと思われるような映画が相当数公開されていることは公知の事実であり、当裁判所もその実状はこれを否定するものではない。しかし、かかる実状は、後記のような映倫管理委員会における審査の態様に由来する点が多いのみならず、かかる実状に対しては相当厳しい社会的な批判の存することも記録上明白であり(原審証人浦松佐美太郎、同吉川政枝の各証言等参照)、社会一般の大勢がその実状を是認しているものとは解しがたい。いわんや、これを刑法のもつ規範的観点からみる限り、それがいわゆる社会的相当性の限界内にあるものというがごときは到底許されないところである。原判決がこの点について説示するところは、映画上映の猥褻性を判断するにさいし、かかる実状もまた考慮に入れて判断するのが相当であるという意味において左袒しうるに過ぎず、それ以上に、なんら積極的な意義を与え、あるいは制約を付与するものではない(なお、この点および前記(ヘ)の点に関しては、後に被告人らの責任について判断するにさいし、さらに言及する。)。
ところで、映画の上映における猥褻性の判断にさいし、とくにこれを文芸作品等の文書における場合と比較して考慮すべき特殊性は、それが動画と呼ばれ、古くは活動写真といわれたごとく、それが動くものであり、かつ絵であるとともに、最近においてはそれに音声がつき、色(本件映画のような白黒という色にせよ。)がついているという極めて単純かつ明白な一事である。すなわち、映画の上映における画面の観覧者に及ぼす現実感、感銘、印象、それによる心理的影響等は、文書に比し、極めて直接的であり、かつ、難解な文字あるいは語句を解しえないような無学、年少の者であつてもこれを感受しうるものであることはおよそ文書の比ではない。それ故性的場面の描写のごときは、極めて慎重な配慮がなされるべきであるとともに、ひと度その表現方法を誤らんか、たとえその内に深遠な哲理を蔵していても、通常人をして、ただ男女のみだらな姿態として感受されうる危険性を多分にもつものというべきである。このことを考慮するにおいては、映画の上映における猥褻性の判断をするにさいしても、猥褻文書に関する前記最高裁判所判例が判示する趣旨はいささかもこれを緩和すべきいわれはない。
上来説示したところに立脚し、本件映画の上映における各場面について検討してみると、男女間の性交、性戯を直接かつ露骨に描写表現している場面のないことは原判決も説示するとおりであり、また、作品全体としてこれをみる場合、そこに芸術性あるいは思想性が全くないなどとはいいえない。そして、本件公訴事実が指摘する起訴状別紙4の場面、すなわち静江が全裸(と看取されるような)のままで戸外に飛び出し、基地周辺を走る場面のごときは、映画倫理規程に照らせばもとより問題があるにしても、それが女性一人の映像であり、かつ、自然の走法をもつて疾走していること並びに同女の真摯な表情等に照らし、格別卑猥な感情を誘発するものではなく、画面の構成に徴し、部分的にこれをみてもむしろその芸術性が比較的容易に看取され、全裸の女性という一般的な卑猥感があるとしても、それは右芸術性の故に昇華されているといいえないわけではない。しかし、本件公訴事実が指摘するその余の部分は、いずれも、界女の相関的なからみ合いの場面で、それが男女の性交またはそれと密着した前後の姿態であることあるいは性戯中なることを容易に看取しうるような画面であり、かつ、それがさきに映画上映の特殊性として指摘したような、実在の人物による演技と動き、せりふその他の音声および音響による現実感を伴なうものであつて、これを冒頭説示したような刑法上の猥褻性判定の基準に照らせば、本件映画中、少なくともそれらの部分は、いずれも、猥褻性を有するものといわざるをえない(もつとも、起訴状別紙6の場面は、単に母性愛を描いているに過ぎないものとして、猥褻とまで断ずる必要はないと考える余地もあるであろう)。とくに、本件公訴事実が指摘する起訴状別紙5の場面、すなわち、次郎の叔母由美の経営するバーに押し入つた黒瀬、山脇の両名が同女から金銭を強奪した後、輪姦する場面(なお、検察官の原審以来の主張は、そのさい、次郎もまた同女を姦淫したとする趣旨のごとくであり、由美の姿態、せりふ中にはそれと看取しえないでもない部分も存するが、画面を客観的に観る限り、必ずしもそのように解さねばならないようなものでもないので、次郎と叔母とのいわゆる近親相姦行為としては考慮しない。)のごときはその最たるものというべきであり、普通人の正常な性的羞恥心を害し、かつ、善良な性的道義観念にもとる点においてとくに甚しいものがあるというべきである。そして右5の場面のごときは、かりに、猥褻性判断の基準を作品の全体的考慮の下におき、かつ、製作者の主観的な意図を考慮すべきものとの見解に立脚するとしても、該場面をその画面のごとく表現することの必要性ないし必然性を首肯することはできず、被告人川口らが主張するところの芸術性あるいは思想性の故に昇華されるものとは到底認めがたい。なお、本件映画中には、本件公訴事実が例示する部分以外の部分にも、性器あるいは性交を暗に連想させるようなせりふを含む場面がかなり存することは原判決もこれを認めるとおりである。
以上のごとく、本件映画の上映中には、猥褻性を帯びる部分が相当存するものと解すべきところ、ある映画の一部に猥褻部分が存するときは、その一体性から該映画が全体として刑法第一七五条にいわゆる猥褻図画となることは文書における場合とその理を異にするものではないから、本件映画「黒い雪」は、全体として猥褻映画といわざるをえない(原判示―三〇、三一ページのように、本件映画が映倫管理委員会の審査を通過して本件公開後に、改めて映倫管理委員長及び管理委員らが本件映画を観覧し、その一部分をカット(当庁昭和四二年押第六三六号の三九参照)させ、広く一般の公開に付したことは、当裁判所の右判断が正当であることを示す一資料となるといえるであろう。)。
なお、原判決は、本件映画には性的場面の描写部分の存することはこれを認めながらも、その多くは、性行為を享楽的に取り扱つているものではなく、むしろ否定的に描写したものであるとか(この点は当裁判所も是認しないわけではない。)、ジェット機の爆音によつて米軍基地の存在をじかに想起させていることなどのために、むしろ性的場面の卑猥感が滅殺されている(かかる面の存することもまた、当裁判所はこれを認める。)ことをも本件映画の猥褻性を否定する根拠としているが、かかる事情の存することをもつて本件映画の猥褻性そのものを否定するに足るものと解するのは当裁判所の左袒しがたいところである。さらに、原判決が、本件映画の観覧後に残存する感興として、それは悲哀感や空虚感などであつて性的な快楽感ではないとする点はともかく、性的羞恥感をも否定するのは賛同しがたいところである。そして、原判決は、本件映画中には部分的に卑猥感を与えるおそれがあると考えられる描写部分があるとしてもそれはこの映画全体に支配的効果を形成するほどのものではないなど、いわゆる全体的考察をなしているが、その説示するところは、前記(1)のごとき全体的評価の意義を不当に強調するか、または独自の見解というべきであり、本件映画の上映に猥褻性を認める当裁判所の結論を左右するものではない。
そこで、かかる猥褻映画を公然陳列したとされる被告人両名の刑事上の責任の有無について検討する。この点について、到底看過することのできないのは、原判決もいうように、本件映画が映倫管理委員会の審査を通過している事実と右管理委員会の性格にほかならない。すなわち、映倫管理委員会(いわゆる映倫)成立のいきさつ、その審査方法、審査基準、本件映画が審査を通過するまでの経過並びにいきさつ等については、原判決が第二の二(映倫管理委員会および本件劇映画「黒い雪」の同委員会における審査について)並びに第三の三6において詳細に判示しているところであり、記録並びに当裁判所における事実取調の結果によるも、右認定部分には事実誤認は存しない。そして、当裁判所が被告人両名の刑事上の責任を考察するにさいし、右事実中、とくに考慮すべきものと考えるのは、そもそも映倫管理委員会の前身である映画倫理委員会が設立されたのは、第二次大戦後国家による検閲制度(活動写真「フイルム」検閲規則、映画法等)が廃止され、表現の自由が憲法上の保障をえたことにかんがみ、映画形式による表現の自由を映画業界関係者自らの手によつて守るために、そしてそのためには、観客の倫理的水準を低下させるような内容の映画は自主的にこれを排除して国家による検閲制度の必要性を事前に除去しようとする目的をもつて発足したものであること、爾来今日に至るまで、右映画倫理管理委員会並びにその後身である現行の映倫管理委員会においては、制度設立の趣旨、目的にそうべく真摯な努力を続け、ときに社会の厳しい批判を浴びながらも、そのつど改善し、一応、社会的な信頼をえてきたこと、そのため、検察当局においても、恐らくは本制度の趣旨、目的とその活動に十分の考慮をなしていたものか、世上いかがわしい映画が公開されることはあつても、右委員会の審査を通過した映画については、本件以前に一件も公訴の提起をなしたことがなかつたこと、以上のような諸事情にかんがみ、本件映画のような劇映画の製作者においても、該映画が映倫管理委員会の審査を受けるにさいしては、自己の抱懐する芸術観あるいは製作意図からする表現方法を若干変更してもその審査を通過させることに努力するとともに、右製作者あるいはその公開担当者は、右審査の通過をもつて、その公開が社会的、法律的に是認されたものと信ずるに至つたと認めるを相当とすることである。
しかし、記録によれば、映倫管理委員会の真摯な努力にもかかわらず、その意図が全面的に具体化されたとは認めがたい節もあり。また、その審査結果について社会的な一応の信頼をえているとはいえ、ときに厳しい批判を招いたことも前記のとおりであり、常に、すべての映画について全面的な信頼をうるまでに立ち至つてはいないことも否定できない。このことは、当裁判所において直接映写して取り調べた映画その他世上一般に公開されている映画の中にも、社会通念上その公開を一般に是認すべきものとは解しがたいような映画の介在することに徴しても明白であり、にもかかわらず、今日に至るまで、本件映画以外には公訴の提起をみなかつたという事実は、前記のような憲法的事実の経過に由来する映倫管理委員会の審査制度に対する法の謙抑というべきであり、それが社会的に是認されているとか、ただ単に放置されて一般に許されているものというのは当らないところである。もつとも、右のような批判の余地のある審査結果の実状は、映倫管理委員会における審査の制度的性格、並びに、より多くは、主として映画製作者の側における受審態度に由来する点が多いものと解される。その間の消息は、映倫管理委員会が審査にさいして準拠すべき各規程、覚え書並びに映倫管理委員長である高橋誠一郎、同管理委員会の審査員にして本件映画の直接審査に当つた荒田正男および八名正のほか映倫維持委員長大川博などの映倫関係者、さらに本件映画の審査に直接関与または出席した長島豊次郎(本件映画の助監督)、安井幹雄(日活社員)、服部忠久(同上)らの原審各証言を通じて容易に看取されるところである。すなわち、映倫管理委員会の審査なるものは、その性格上当然のことながら、たとえある映画のある部分に映画倫理規程に照らして改訂削除を要するようなものがあつても、その是正は担当審査員の審査申請者に対する「勧告と両者の「協議」によるものとされている(映倫管理委員会規程の六「審査の実際」A審査(ニ)等参照)。したがつて、それが「勧告」であり「協議」である以上、そこに両者とくに映画製作者側における良識と社会的責任の自覚なくしては所期の目的を達しえないことは明白である。劇映画も、今日においては、もとよりその芸術性を否定することはできないが、他面、その娯楽性と商品性をも否定し去ることはできない。また、芸術が人間そのものを探求せんとする限り、映画といえども性的描写が不可欠のものとしてその必要に迫られることもあるであろう。かかる映画の芸術性あるいは娯楽性、商品性から、その製作者等審査申請者としても、自らの良識と社会的責任の自覚いかんにかかわらず、いきおい、映画倫理規程の解釈も緩やかになる等審査員と見解を異にし、あるいは、審査員の改訂削除勧告にも容易に応じがたい事情と心情も理解できないわけではない。ところが、審査当局者は、審査にあたり、映画の質的、美術的または芸術的批判はいつさい行なわないとしていることは前記のとおりであるが、他面、たとえば、八名正の原審証言中、「本件映画の審査経過において、映画倫理規程の精神から言えば削除してもらいたい部分もあつたが、製作意図からどうしても必要だというので短くすることで譲歩した」とか、ピンク映画などと呼ばれている俗悪卑猥な映画についてさえ「それぞれ、なんらかの内容なり、テーマというものがある。その作品の内容との関連において、ある描写は具合が悪いとか生かしうるという判断をしている)(記録三冊六八三丁裏)旨供述しているところからも窺われるように、明らかに製作者の主観的な製作意図を考慮し、これとの関連において審査していることは明白といわざるをえない。かくては、さなきだに解釈の幅の大きい映画倫理規程の解釈運用は、弛緩し、原審立会検察官のいわゆる映倫審査における申請者の「押せ押せムード」も正当に防止しえない危険をはらむものと解される。そして、ここに、世上、映倫通過の名のもとに横行しているただ単なる性的映画(当裁判所において直接映写して取り調べた映画中にも存する。)の存在の一因を知るとともに、猥褻性の有無が作者の主観的意図によつて影響されないとする前記最高裁判所判例の見解と映倫管理委員会の猥褻性に関する審査基準との間の断層を見出すのである。それ故、たとえある映画が右のような実状のもとにおける審査を通過したからといつて、それは当時の社会通念を推しはかる一つの資料とはなりえても、ただその一事をもつて刑法上の猥褻性を否定し去るものではなく、いやしくもその嫌疑あるにおいては捜査当局の捜査の対象となり、本件映画のごとく改めて司法審査の対象とされることもありうることであり、場合によつては、処罰をも免れえない結果を招くは必然というべきである。
しかし、以上のような審査の実状にもかかわらず、映倫管理委員会会等映倫関係者としては、制度発足以来今日に至るまで、不断の努力を傾注してきたことも否定できないところであり、映画製作者等映画を国民に提供する側としても、それが制度本来の趣旨、目的に対する自覚によるか、あるいは商業政策上の止むをえない制約または関門と心得ているかの別はあるにしても、その映画が映倫管理委員会の審査を通過することを当該映画公開上の不可欠の要件と考え、右審査の通過のためには、製作者として抱いている芸術観その他の映画観から不可欠とする表現方法をもある程度修正し、譲歩するような協力(それが総べての製作者についていえるか、また、客観的に是認しうる程度の協力といえるか、については争いがあるにしても。)をもなすに至つていることもまた証拠上否定しがたいところである。規制する者とされる者、それはたとえ自主的なものであり、勧告と協議の関係にあるものであるとしても、心理的には強制と受忍の関係といわざるをえない。右のように審査の通過のために努力し、協力した映画製作者並びにその公開担当者としては、右審査の通過をもつてその公開が社会的に是認されたものと考えたとしてもまことに無理からぬところである。そして、社会一般もまた、ときに厳しい指弾を加えるとはいえ、映倫管理委員会の審査制度の存在意義とその実績はこれを高く評価しているのであり、また、環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律に基づいて全国興業環境衛生同業組合連合会が定め、厚生大臣が認可した適正化基準第一〇条は「組合は、上映映画の制限を行う場合には、組合員をして、映倫管理委員会の審査に合格していない映画を一般興業用として上映させてはならない。」と規定している等、政府機関もまた映倫管理委員会の審査の社会的権威を信頼し、興業環境適正化の観点からも、右審査に通過した映画の公開はこれを是認している事実、並びに、そもそも法は社会秩序の維持に関し重要な意義を持つ道徳すなわち「最少限度の道徳」の実現を企図しているにかかわらず、映倫管理委員会の審査は映画倫理規程の前文その他各条項を一見しても明らかなように、広く一般に国民の倫理ないし道徳を問題にしているのであり(本件映画の審査経過を記録によつてみても、刑法上は当然不問に付されるような部分についても修正削除の論議がなされていることが明らかである。)、換言すれば、右審査における規制は刑法的規制よりもより厳格な面もあるのであり、したがつて、その審査を通過した映画の製作者その他の公開担当者としては、もはや刑法上の処罰を受けることはあるまいと考えたとしても無理からぬことであり、事実、前記のように、それが捜査当局の法の謙抑に出たものにせよ、映倫制度発足(昭和二四年六月一四日)以来本件発生当時に至るまですでに一六年間、一度として右審査に通過した映画の上映について刑事上の訴追を受けたことがないような実状にかんがみれば、前記のように修正、削除をも経て右審査に通過した映画の製作者らとしては、もはや、その上映公開が社会的に是認され、刑事上の処罰を受けることがない、許された行為と信じて疑わなかつたとしても故なきものとはいいがたい(なお、このことは、右のごとく本件発生までの実状を基礎とするものであるから、本件映画が現に公訴を提起され、映論の審査とは別個に、その映画の猥褻性が改めて刑事上の処罰の問題となりうることが映画関係者に明らかにされた以上、本件以後の事案については、おのずから別個に考察されるべきであろう。)。
本件各被告人およびその弁護人らもまた、これと同旨の主張をなしている。
もとより、刑法第一七五条の罪の犯意については、前記最高裁判所が猥褻の文書について判示するところであり、これによれば「問題となる記載の存在の認識とこれを頒布、販売することの認識があれば足り、かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで必要としているのではない」ことおよび「かりに、主観的には刑法第一七五条の猥褻文書にあたらないものと信じてある文書を販売しても、それが客観的に猥褻性を有するならば法律の錯誤として犯意を阻却しないもの」とされている。これを本件についてみれば、本件映画の上映が客観的には同法条に定める猥褻性を具備する図画と解すべきことは前記のとおりであり、被告人らは、いずれも問題となる場面の存在を認識し、これを上映(陳列)することの認識を有していたことは記録上明らかであるから、同人らに刑法第一七五条の罪の犯意ありとするに十分のごとくでもある。しかし、前記判例といえども、被告人らのごとき映画の上映者において、該映画の上映が同法所定の猥褻性を具備しないものと信ずるにつき、いかに相当の理由がある場合でも、その一切につき犯意を阻却しないものとして処罰する趣旨とは解しがたいのみならず、ここでも、映画の上映における特殊性、すなわち、文書その他の物の場合とは異なる規制機関の存在、しかも、それは、前記のごとく、憲法の改正に伴ない、日本国憲法の精神に合致する制度として発足し、国家もまたそれを是認している制度であることを考慮せざるをえない。かかる観点に立つて、被告人らの本件行為に対する責任について按ずれば、被告人らはいずれも映倫管理委員会の審査の意義を認めて本件映画をその審査に付し、その間、被告人川口は、もとより製作者として主張すべき点は主張して審査員との間に論議を重ねたとはいえ、結局は審査員の勧告に応じ、一部修正、削除して右審査の通過に協力し、本件映画は原判示のように、昭和四〇年六月四日いわゆる確認審査を経て映倫管理委員会の審査を通過したものであり、被告人両名等本件映画の公開関係者は、右審査の通過によつて、本件映画の上映が刑法上の猥褻性を帯びるものであるなどとは全く予想せず、社会的に是認され、法律上許容されたものと信じて公然これを上映したものであることは一件記録に照らして明白であり、映倫管理委員会制度発足の趣旨、これに対する社会的評価並びに同委員会の審査を受ける製作者その他の上映関係者の心情等、前叔のごとき諸般の事情にかんがみれば、被告人らにおいて、本件映画の上映もまた刑法上の猥褻性を有するものではなく、法律上許容されたものと信ずるにつき相当の理由があつたものというべきであり、前記最高裁判所判例が犯意について説示するところは当裁判所においても十分これを忖度し、尊重するとしても、前記のごとく映倫審査制度発足以来一六年にして、多数の映画の中からはじめて公訴を提起されたという極めて特殊な事情にある本件においても、なおこれを単なる情状と解し、被告人らの犯意は阻却しないものとするのはまことに酷に失するものといわざるをえない。してみれば、被告人らは、本件行為につき、いずれも刑法第一七五条の罪の犯意を欠くものと解するのが相当である。記録並びに当裁判所における事実取調の結果に徴するも、他に被告人らの犯意を肯認するに足る証拠はない。
してみれば、原判決が本件映画の上映をもつて刑法第一七五条所定の猥褻の図画にあたらないものと判断した点は同法条の解釈を誤つたものであり、その限りにおいては検察官の論旨は理由があるが、被告人らの行為について無罪を言い渡した結論においては当裁判所とその見解を同じくするものであつてこれを破棄するには足りず、原判決の破棄を求める検察官の論旨は、帰するところその理由なきものといわざるをえない。
なお、被告人川口は原審以来、本件公訴の提起が政治的配慮に基づく公訴権の濫用であるかのごとく主張する。しかし、一件記録を通じてみても、検察官に所論のような違法または不当な配慮があつたものとは認めがたい。当裁判所がここに判決する趣旨も、決して右主張を容認するものでは毛頭ない。およそ劇映画を公開させるか否かは、まず映倫管理委員会において決すべきものであり、ひと度その審査を通過させた映画の上映については、これが上映に伴なう社会的責任は、まず同委員会において負うべきである。もとより、映倫審査制度の性格上、製作者その他の映画関係者における本制度に対する理解と協力なくしては同委員会といえども十分な活動と成果を期待しえないことは当然である。それ故、もしその両者にして、すなわち映倫管理委員会においては製作者の主観的意図を重視する余り映画倫理規程の解釈に弛緩をきたし、製作者においても自己の芸術的立場や製作意図を強調するの余り、本制度の意義を忘れ、ただ単に映倫審査を通過しさえすれば能事終れりとするがごとき事態を招くにおいては、いきおい、社会の批判もさらに厳しく、本件のごとく刑事上の訴追を受けるがごときに至ることは必定というべきであろう。そして、かかる事態の重なるにおいては、映画関係者みずからの手によつて本制度発足の趣旨を没却し、由々しき事態をも招くおそれなしとしない。本件公訴の提起は、映倫管理委員会並びに映画製作者等映画関係者に対し、このことについて真摯な考慮を促し、自覚を求めた点において相応の意義あるものというべきである。ただ、当裁判所は、本件訴訟が上来再三にわたつて指摘するように、映倫制度発足以来はじめてのものにかかり、かつ、長年にわたつて醸成された映画関係者の無理からぬ意識の中において行なわれたという特殊性を考慮し、そして、より根本的には、将来は別として、ただ今日までにおける右映倫制度そのものに対する法のとるべき態度として以上のごとく判断するに過ぎない。(ちなみに、原判決もまた、もし本件映画が猥褻性を帯びるものと判断したとしても、犯罪の成立につき当裁判所と同様の結論をとつたと解される余地がある―原判決七二ページ参照)。
畢竟、本件控訴はその理由がないので、刑事訴訟法第三九六条によつて本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。(栗本一夫 石田一郎 金隆史)